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メモ

アートとデザインについてのメモ。

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※ここに書かれていることは、僕が普段考えていることの一端を書き記したものです。説明が不十分であったり、突然別の話題に移ったりしていますが、「とにかく思い付いたまま書き上げたもの」であることを理解ください。
※間違いなどがあれば、コメント・メッセージ等で指摘していただければ助かります。
※これからも加筆修正を繰り返します。永遠のベータ版です(Web2.0風)。

でわ、いざ。

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◆「design」の語源は「designare」。
これは、「計画を記号化する」という意味のラテン語。
ちなみに、「dessin(デッサン)」の語源でもある。

◆アートとは
美しいとされるもの、社会的規範となるもの。
あるいは、それを作ることや新たな「美しさ」の基準を定める行為。

普段の生活では使うことの無い(使う必要の無い)感覚や過去の記憶などに働きかけ、自ら意識できるレベルにまで引き上げる力を有するもの。また、そうした役割や目的を伴って行われる活動。

◆「アート」と「芸術」は同じようで、異なる概念であると感じている。
明確な定義は今のところ見付かっていないが、これまで仕入れてきた情報から、「アート」は主に現代的な芸術作品・活動を指し、「芸術」はいわゆる「芸術・美術」全般を指す言葉であると考えられる。
ただ、このあたりの定義も非常に曖昧で、様々な辞書や専門書などでも「アート=芸術・美術」とされていることがほとんどである。
なので、ここでの文章も基本的に「アート=芸術・美術」であるという前提に基づいて書き記していく。

文中で「アート」と「芸術」あるいは「美術」という風に、言葉を使い分けることがままあるが、それは個人的な感覚による自動的な選別であり、特に意味はないと理解いただきたい。

◆デザインとは
有形・無形を問わず、あらゆるモノ・コトを作るための計画・思考のプロセス。
あるいは、そうしたプロセス中の「考える」という行為そのもの。
そして、「考えた結果」を第三者が見て理解できる状態へ定着させること。

◆日本における「デザイン」の一般的なイメージは、表面的である。
目に見える装飾や造形のこと(もの)のみに対して「デザイン」と称することがほとんどだ。
しかも、なぜか「カッコいい職業」ということになっている。

◆こうした誤解とも言えるイメージを定着させた原因の一つは、「意匠」という言葉が「design」の訳語として使われていたことだろう。
なぜなら、「意匠」は主に表面的な装飾などの特徴を指し示すものだからである。
(街中の広告スペースに掲示してある、「意匠制作中」というアレだ)

◆また、「デザイナー」と呼ばれる職業の人が具体的にどんな仕事をしているのか、ということが知られていないことも、現実から乖離したイメージを生み出す要因となっている。

◆例えば「料理人」や「スポーツ選手」などは、大体の想像はつく。普段の生活で行っていることの延長線上にある仕事だからだ。日常的なアマチュアのレベル、職業として活動するレベル、そしてその中でもごく一部の人が属する最高峰のレベル。どんな業界であれ、少なくともこれくらいの区分けは可能である。プロだからといって、すべての人が等しく活躍しているわけではない。

◆にも関わらず、デザインに対してはそうした誤解が定着している。それは恐らく、アマチュアのレベルや、一般的な多くのプロたちの仕事を知らないからだろう。普段の生活に馴染みが無い、或いは逆に、あまりにも身近すぎることだからこそ、その詳細を知る機会は驚くほど少ない。

◆ときどき、有名デザイナーをメディアが紹介することはある。が、それでも仕事内容を詳しく正確に伝えていることは非常に稀だ。

TV番組を例に挙げれば、だいたいの流れはこんな感じだろう。
まず、そのデザイナーの代表的な過去の仕事を紹介される。ここで必ず「彼の名前を知らなくても、必ず目にしたことのある……」といったナレーションが入る。
次に、進行中の(or これから始まる)プロジェクトのミーティング風景が映される。
その後、プロジェクトに参加しているメンバーやデザイナー本人のインタビューを挟み、プライベートの過ごし方などを軽く紹介。
するといきなり「その2ヶ月後」などといって、プロジェクトが山場を迎えてしまうのである。
その2ヶ月間で行われたことが最も重要なキモなのにも関わらず。
そして、無事に山場を越えることが出来たデザイナーは、また一つ大きな成果を生み出した……。
で、今後の目標やポリシーなどを語って、エンディングである。

◆なぜこういうことになるかと言えば、キモとなる期間に行われる仕事が、極めて地味だからである。
デザイナーが紙や画面に向かってウンウン唸っている姿は、お世辞にもカッコいいものではない。
また、第三者が目で見て分かるもの(モックアップ、ラフ案など)が出来上がるのは終盤に差し掛かってからで、それまではデザイナーの頭の中とメモ用紙などで情報の構築と分解が繰り返される。
そんなものを見ていて面白いと思うのは、恐らく同業者くらいだろう。
見た目に分かりやすく、カッコいい姿を全面に出したい制作側からすれば、極力出したくない姿なのだ。

こうして、メディアの多大なる協力(大きなお世話)も手伝って、「デザイナー=何となくカッコいい」という奇妙な図式が成り立っていくのである。

◆こうしたことから、「デザイン」というと「キレイに飾り付けること」や「カッコいいものを作ること」といった浅いイメージに終始してしまう。
「デザイナーズマンション」などという言葉が通用しているのが、その証拠である。
(どんなマンションであろうが、デザイナーは絶対に関わっているのだが)

◆「表参道ヒルズを設計したのは安藤忠雄」ということを知っていても、彼が具体的に何をしたのか、「設計」という言葉の中にはどんな仕事が含まれているのか、正確に挙げられる人はほとんど居ないだろう。
本当は知らないのに、何となく知った風になってしまう、ということが蔓延していることも、誤解の増殖に拍車をかけている。
普段目にする作品・製品のデザインがあまりにも出来上がっているため、何もしなくてもあれくらいのものは独りでに生まれてくる、という印象があるんじゃなかろうか(少なくとも、デザインに関わる前の僕はそうで、それがどんな風に作られたか、なんてことを考えることもなかった)。

◆「カッコいいもの」を作るのがデザイナーの仕事ではない。
メディアに取り上げられたり一般の目につくのが、そういう「カッコいいもの」や「派手派手しいもの」や「分かりやすいもの」であることが多いから、そう思ってしまうだけである。
「カッコよくする必要」があり、メディアに取り上げられたり注目されたりしなければならなかったからそういう風にデザインした、という結果に過ぎない。
実際には、メディアに取り上げられることもなく、注目されることもないまま消費されていくものがほとんどであり、それらはそれぞれに重要な役割を担っているのだ。

◆デザイナーの仕事は、「アイデアを出す」ということと同意ではない。
いわゆる発想や創作といった類の仕事はむしろごくわずかで、それよりも、膨大な知識と技術によってロジカルに客観性のある下地を組み立てていくことが重要な仕事なのである。

◆「デザインする」とは言うが、「アートする」とは(敢えて意味を付加するとき以外は)ほとんど言わない。
また逆に、「アート作品」はよく聞くけど、「デザイン作品」はあまり一般的ではない。
これらのことから、「デザイン」とは行為を指し、「アート」とは結果・作品を指す言葉であると考えられる。
(英語でも「design」には「er」が、「art」には「ist」がつく。ということから考えて、「design」は動詞、「art」は名詞である、という定義に持っていきたかったのだが、これについては充分な裏付けが取れなかったので今後の課題としたい)(情報求む)

◆上記から考えると、「アート」と「デザイン」は最初から別次元のことであり、比べること自体がナンセンスであるといえる(「音楽」と「演奏」を比べているようなものなのだ)。
また、「アートをデザインする」という表現・行為も可能だろう。
というよりも、「全てのアート作品はデザインされている」と言った方がより正確かも知れない。

◆では「デザイン」が指し示す「行為」とは、具体的に言えば何なのか。
それは恐らく「考える」ことである。
現在、「design」の訳語としてよく使われているのは「計画」・「企画」・「設計」・「立案」などだが、これらの本質もすべて「考える」ことである。

また、「デザイン」が一般的に定着・普及し始めたのは、機械性工業が発達した18世紀後半から19世紀にかけてである。
それまでは「作る」ことと「考える」ことがセットだった。
「考えながら作る」あるいは「作りながら考える」が当たり前で、「作る」の中に「考える」ことが含まれていた。
ところが、機械性工業の発達により大量生産が可能になると、「作る」が独立してしまった。
何も「考える」ことなく、モノが生み出されるようになったからだ。
そして、その前段階として「考える」ことが必要になり、それが「デザイン」として認知されるようになった。

また、技術の高度化・専門化の流れを受け、すべてを一人でこなすことが困難になってきた。
その専門的な仕事の一つとして、「デザイン」は存在している。
(建築などは以前から「考えてから作る」ものだったのだろうが、「考えた人が作る」あるいは「指揮を執る」ことがほとんどだったようなので、あまり「考える」と「作る」を分けることは無かったと思われる)

◆さらに解釈を広げれば、アートに限らず全ての人工物は「デザインされている」と言えるかも知れない。
この「人工物」には、有形のものはもちろん無形のものも含まれる。つまり、音楽や映像、文章や思想などだ。
例えば音楽は、もちろん人間の(あるいは動物の)感覚に訴えかけるものではあるけれど、それを支えているのは古くから蓄積・確立されている膨大な理論である。
聴く側は感覚だけで良いかも知れないが、作る側は感覚だけでなく理論的な思考能力も必要なのだ(民族音楽などでは、「伝統」という形でリズムや音階などの「理論」を受け継いでいる)。

◆では、「デザイナー」とは何をする人を指すのか。
全ての人工物が「デザインされている」のならば、それらを作った人すべてが「デザイナー」であると言えるので、単に「デザイナー」と言うだけでは何も具体性が無いのだ(「プレイヤー」と言っているようなものである)。
つまり、「何のデザイナーなのか?」が重要で、他の職業はそうした名前が付いている。

「料理をデザインする人」は「料理人」だし、「写真を撮る人」は「カメラマン or フォトグラファー」だし、「企画する人」は「プランナー」だし、もちろん「アート作品を作る人」「アートに関わる人」は「アーティスト」である。
ところが、いま「デザイナー」と呼ばれている仕事をしている人は、「デザイナー」以外に呼び方はない。
最近になって「グラフィックデザイナー」や「Webデザイナー」や「プロダクトデザイナー」などの専門色を帯びてきてはいるけど、それでも「デザイナー」は外せない。
「デザイナー」とは、未だに専門的な名前を付けてもらっていない可哀想な職業、のような気もする。

◆仕事の中身はというと、やはり「考えること」である。「グラフィックデザイナー」は「グラフィック」について考えるし、「Webデザイナー」は「Web」について考えている。
実際にはデザイナーがモノの制作まで担当することも多いのでゴチャ混ぜになっていることも多いが、モノを作る人にはちゃんとした職業名がある(オペレーター、コーダー、プログラマー、ライターなど)。
デザイナーの仕事は、そうした「作る」人たちに「どんなものを作ったら良いか」を「考える」ことなのである。
(もちろん、考えたことをちゃんと「伝える」ことも大事)

◆ということで、「デザイナーとは?」という問いに対する答えは、「考えることのプロ」なのだろうと思う。
「運動することのプロ」が「○○プレイヤー」と呼ばれるように、「○○デザイナー」は「○○」について誰よりも(少なくとも一般人よりは)深く考える能力を発揮すべき職業なのである。

◆デザイナーの仕事を紹介するときの例として、よく挙げられるのが「医者」だ。これは、非常に的を射ていると思う。
「頭が痛い」「お腹が痛い」「ちょっと調子が悪い」と、患者は様々な症状を訴える。中には病名まで自己申告する患者もいる。
しかし、医者はそれを信じてはいけない。しっかりと診察をして、ときには綿密な検査を行い、原因と治療法を確実に判断しなければならないのだ。その後、薬の処方や手術などを適切に行っていくのである。

この例の「患者」を「クライアント」、「医者」を「デザイナー」と言い換えれば、驚くほどピタリと当てはまる。
「風邪薬ください」という患者に、そのまま風邪薬を渡してしまう医者が医者ではないように、クライアントの要求に従うだけのデザイナーはデザイナーではない。

◆芸術作品が高く評価されるポイントを、「距離」というキーワードに当てはめて4つほど挙げたい。
「距離」というのは便宜的な言葉なので、他に適切な言葉があれば言い換えてもらっても構わない。
また、この4つはそれぞれ深く関連し合っているので、完全に独立することは有り得ない。

1. 物理的な距離
2. 文化的な距離
3. 時間的な距離
4. 日常からの距離

1は、いわゆる実際の距離である。身近にあっていつでも触れ合えるものよりも、未だ見ぬ遠くの作品により強い思いを馳せるのは自然な気持ちであろう。

2は、異なる文化が形成されている国・宗教・民族などの枠組みを越えたときの、ギャップや驚きによってその価値が高まるというものである。現代の日本ブームは正にこれ。

3は、リアルタイムで生み出される作品よりも、何百年・何千年前に生み出された作品の方が素晴らしく感じるというものである。
また、その技術力が高ければ更に価値は上がる(「この時代によくぞここまで……」といった具合に)。

4は、言い替えれば「新しさ」とも言えるような、普段の生活では得られない感覚や視点を与えるために必要な要素。
一般市民にとって当たり前のものであれば、わざわざ「芸術」として評価することもなく、崇めたり畏れたりすることもない。
実用的・機能的なものであれば尚更、評価するポイント自体が「芸術」とは違ってしまう。

但し、ただ日常から遠ければ良いというものでもない。
ある程度の距離を取りながら日常と相容れない状態を保ち、尚且つ手の届く・目に触れるところに繋がっている必要がある。
まったく誰とも接することの無い(コミュニケーションの発生しない)作品など、存在していないのと同じだからだ。
また、初めはあまりにも日常からかけ離れすぎて受け入れられなかったものが、段々と生活に馴染むことで芸術として認められることも多く存在する。
建築などは良い例だろう(エッフェル塔などが分かりやすいかも知れない)。

これらの要素と、作品が本来持っている価値が組み合わされることによって、いわゆる「市場価値」が決まっていく。

芸術には、絶対的な基準などない。国、時代、地域、民族、宗教、顧客の嗜好や流行、その他のあらゆる条件によって大きく変化する。
いくら「客観」といっても、全世界で共有できる客観性など持てるはずもない。ある単位ごとにコンセンサスの取れた「集団的主観」ともいうべき価値観を、「客観」と呼んでいるだけのことである。

◆アートはさらに、大きく2つに分けられる。
1. 学術的……客観的。変化しやすいが、定着も早い。
2. 文化的……主観的。変化しにくく、定着にも時間がかかる。

1は、いわゆるアカデミズムで、学者や知識人によって定義付けられ、評価の基準を定められたものである。また、その時代の社会や政治の情勢にも大きく左右され、教育にも強い影響を与える。そのため、作品に対する評価が数年でひっくり返るなんてことも有り得るし、政権が交替するだけで価値観が逆転してしまう。ただ、作品の取引や評価に用いられるのも、この「学術的」なコンテキストに則った指標・基準である。

2は、一般民衆レベルの芸術を指す。知識や教養などはそれほど必要とされないが、作品の評価や国家の歴史に影響を与えることは稀で、学者などから重要視されることもない。ただ、宗教や民族意識が強く反映されることも特徴で、社会や政治がどうなろうが己の誇りを賭けて作品を奪い合う、なんてこともある。

◆「アート=自己表現」、「デザイン=商業的」というイメージも根強いが、これも一般的な誤解である。
先述の通りアートとデザインは比べるものですらないので、こうしたイメージ自体、それぞれを理解していない証拠だろう。

◆アーティスト・芸術家は、その作品の規模に比例して莫大な資金が必要となる職業であり、自己表現しているだけではいずれ破綻する。
そうならないために、古くはパトロン、現代で言えばクライアントの要望に応え、作品を作り、報酬を得るという仕組みが存在しているのだ。
もちろん「あなたの好きに作れば良いよ」というパトロンやクライアントも居るだろうが、だからといって彼らの立場を悪くしたり無視したりするようなものは作れない。むしろ彼らに喜んでもらえるようなものを作らないと、次の作品にとりかかることすら危ういかも知れない。プレッシャーは常に付きまとう。

また、芸術を生業としている以上、自分の作品を人の目に晒すことは必須である。
従って、そこにはコミュニケーションが生まれるわけだから、独りよがりな作品では「作品」としてすら認めてもらえない可能性が高い。
そうした考慮を含む必要がある以上、ただ純粋な「自己表現」であることは難しいし、含まれる考慮とはつまり「デザイン」のことである。
(ただ純粋な自己表現をしたければ、誰にも見られないことを前提にするしかない。但し、誰の目にも触れないことを「表現」とは呼ばないことも覚えておく必要があるだろう)

◆「デザイン=商業的」というイメージは、恐らく「クライアントの要望に応える」ということから発生していると思われる。
確かにデザイナーの仕事としてクライアントの要望に応えることは重要なのだが、だからといって全く表現していないかといえば、そうでもない。
なぜなら、クライアントは非常に大雑把な要望しか出さないことが常であり、そこから最良の形を考え出すことがデザイナーの役割だからである。
(もしクライアントが緻密で正確な要望を出せるのならば、デザイナーは必要ない)
もちろん客観的な理論やデータによってロジカルに組み立てられていくことは間違いないが、エンドユーザーの感覚に訴えかける作品・製品を生み出そうとしている以上、最終的な調整や仕上げはデザイナーの感覚によるところも大きい。

また、デザイナーも人である。ただただ「商売のため」「仕事のため」と理論をいじくり回しているだけで、良い作品が生み出せるわけがない。
その仕事にプライドを持って取り組み、成功を喜び、失敗を反省し、自らの気持ちを強く反映させることも、デザインの質を上げるためには重要なのである。

ということから、「デザイン=商業的」という図式は成り立たない。

◆デザインの専門書などを読んでいると、「デザイナーはアーティストではないから……」という記述をよく見かける。これはつまり、「デザイナーはクライアントやユーザーのことを第一に考え、自分の感覚や好き嫌いで作ったりしないようにね」という戒めである。
まるで、「自分の感覚を放棄してクライアントやユーザーの希望を叶えることがデザイナーとしてのプライド」とでも言っているようだ。

◆上記からも分かるように、「アート=自己表現」・「デザイン=商業的」という考えは、デザインに携わる人たちの間でも一般的である。出来上がったものが使いにくかったり分かりにくかったりしたとき、「アーティストじゃないんだから」と揶揄することも少なくない(これは勿論「もっと客観的な目線を持ちなさいよ」という意味である)。

アートとデザインが対極にあるような、あたかも対立しているかのような考えが定着していることは非常に残念なことだ。




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